浜坂観光協会 HAMASAKA Tourist Association
前田純孝(まえだすみたか)

~前田純孝の詩~

春来峠歌碑春来峠歌碑

峠の歌碑


  牛の背に我ものせずや草刈女
  春木三里はあう人もなし

 但馬・村岡と湯村を結ぶ「春来峠」に、前田純孝の歌碑があります。東京高等師範学校二年、帰省のとき詠んだ旅情の歌です。現在は、トンネルが抜け旧道となった峠は、ひっそりとして早春の気が漂っています。

  峠すでに廃れてとほしをとめらの
  草を刈りしもまぼろしにして      (吉川吉雄)

海の歌碑


  いくとせの前の落葉の上にまた
  落葉かさなり落葉かさなる

 翠渓、歌のステージは暗転します。
 あらぶる海。冬・日本海。諸寄海岸、雪の白浜にも歌碑が建っています。
  暗き雲沖より浦を覆ひ来て
  雪しまく磯に歌碑一つ立つ     (藤田美子)


諸寄・岡の浜歌碑諸寄・岡の浜歌碑
 歌碑に刻まれた二首の歌の創作年代の差は七年。薄幸の歌人、。翠渓のたどった生の註01襞は深くて悲しいものでした。
 翠渓前田純孝(明治13~44)は、兵庫県浜坂町諸寄に生まれ、御影師範学校から東京高師・国語漢文科に学んだ人です。
 明治20年代から30年代にかけて、歌の世界は革新の時代でした。落合直文の「浅香社」から始まって、「註02明星派」といわれた註03与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」。「アララギ派」と呼ばれた註04正岡子規の「根岸短歌会」。理想主義と現実主義が対立、抗争、隆替の時代だったのです。

前田純孝前田純孝
 若き翠渓も、註05石川啄木と共に、明治ローマン主義の渦の中で活躍した群像の一人でした。不運にも結核に冒され、一人、故郷に帰ってこなければなりませんでした。職を失い業病にとりつかれた純孝は、失意のどん底にあって、自らの思いを歌に託して生きていきます。

  寂しさは破れし障子海の音
  手なる小鏡われが唇

 薄汚れた一冊の病床日記が残っています。
 苦悶のなかで生と死をみつめ、壮絶な哀歌の数々を、命をけずりながら遺していきました。

  人のため流るる涕のこるかや
  我もたふとし尚生きてあらむ

  何故に猶生くべきか かかること
  思ひつつあり、蝿の飛ぶ見て

 病状は日ごとに進行していきます。翠渓、最後の歌は、明石にのこす妻と子を思う慕情の詩でした。その歌は、鳥取県境、「七坂八峠」の歌碑に刻されています。

  風ふけば松の枝なる枝なれば
  明石を思ふ妹と子を思ふ

居組・七坂八峠歌碑居組・七坂八峠歌碑
加藤文太郎記念図書館長女・美津子 妻・信子

翠渓歌集翠渓歌集
 夭折(31歳)の翠渓を悼む恩師、学友、友人等により一冊の歌集『翠渓歌集』が編まれています。

 かつて、新詩社で活動を共にした与謝野寛・晶子は、次の歌を献じ追悼しています。

  まごころの光れる歌を猶よめば
  伝えて久し若き純孝     (寛)

  若き人はやく世になしその歌は
  しら玉のごと後をてらせど     (晶子)

諸寄・与謝野寛 翠渓歌碑諸寄・与謝野寛
翠渓歌碑

《純孝の歌1》 帰省のとき


  休日のとうか二十日とたつままに
  君恋ふる歌の多くなりぬる

  十とせぶり我が故郷に帰りくれば
  昔の翁今も炭焼く

《純孝の歌2》 『明星』に初めて載った歌


  人の世にかかるなげきを見るものか
  葬ふらぬ子あり北京のちまた

  引上げし大つりがねの牡蠣をとりて
  銘しらぶると博士らつどふ

詩歌雑誌「明星」詩歌雑誌「明星」

《純孝の歌3》 夕陽丘時代・結婚・長女誕生


  こころある人は来て見よ夕陽丘
  春を限らぬちぬのながめを

  君とわれ二人ながらの一生の
  日とてえらびしけふなりしかな

  しばらくは無言にありき後れ毛の
  ひとり波うつ君が頬を見て

  君をおもふ我をはたおもふ君我の
  二人の中のいとし児ぞこれ

《純孝の歌4》 病む日の歌


  かにかくに病の身こそ悲しけれ
  まなこつむりて水薬をのむ

  病めるもの世に用はなしかくの如
  我は思へり汝も思ふや

  夕立の過ぎにしあとに美しき
  貝など光る磯ばたの道

  虱どもまだわくほどの血のかをり
  我にあるかと心うれしき
  草の上に我れ血をはけば忽ちに
  ひなげしの花芍薬の花

《純孝の歌5》 死の渕の歌


  骨は父に肉は母にと返すとき
  そこにのこれる何物ありや

  軒下につなぎてつるす唐辛
  からから鳴りて秋の風ふく

  祖先らもここに生まれてここに病み
  ここにしもこそ骨埋めけれ

  チクチクと腸のいたむは声なくて
  心の泣くにやや似たるかな

  風ふけば松の枝鳴る枝なれば
  明石を思ふ妹と子を思ふ     (翠渓絶筆)

病中の純孝病中の純孝

■前田純孝
 【注釈】

註01
襞・・・折り目
註02
明星派・・・詩歌雑誌「明星」で活躍した詩人や歌人の集まり。
註03
与謝野鉄幹・・・京都に生まれ、短歌革新運動を推進。
東京新詩社を創立し詩歌雑誌「明星」を創刊した歌人
註04
正岡子規・・・愛媛県に生まれ、万葉集を尊重し写生的な俳句や短歌の革新の道を開いた歌人。
註05
石川啄木・・・岩手県に生まれ、与謝野鉄幹や前田純孝とともに明星派で活躍した歌人。

 【参考文献】
昭和59年『翠渓歌集(復刻版)』前田純孝の会
平成6年『明治・ある歌人 前田純孝のこと』前田純孝の会

 【年譜】
年号
(西暦)
ことがら
明治13年
(1880)
4月二方郡諸寄村の前田純正の長男として生まれ、4歳で母うたと離別する。
明治20年
(1887)
諸寄簡易小学校に入学する。
明治24年
(1891)
鳥取県師範学校付属高等科を卒業する。また、龍満寺で寺子屋を開いて子供たちを教える。
明治30年
(1897)
7月諸寄尋常小学校の準訓導となる。
明治31年
(1898)
4月兵庫県御影師範学校に入学する。文芸部に籍を置き、本格的に歌の勉強をする。
明治33年
(1900)
新しい詩歌の創造をめざした新詩社機関誌「明星」第1号を手に新詩社に所属し、「明星」第8号に純孝の歌2首が載る。
明治35年
(1902)
4月御影師範学校卒業後、東京高等師範学校国語漢文部に入学する。
与謝野寛・晶子らと「明星」の社友として精力的に作品を発表する。
明治36年
(1903)
「大塚音楽会」の中心となって活躍する。
明治37年
(1904)
東京純文社「白百合」に参画する。
明治39年
(1906)
東京高師を卒業し、大阪府立島之内高等女学校の初代教頭となる。
新設校のため仕事は多忙を極め、過労のため肋膜炎に冒される。
8月帰郷途中、春来峠で倒れる。その後復職する。
明治40年
(1907)
3月明石在住の秋庭信子(のぶ)と結婚する。
明治41年
(1908)
10月長女美津子が生まれる。
明治42年
(1909)
信子は産後の健康がすぐれず病床に伏す。純孝は仕事・家事・育児に多忙を極める。
2月肋膜炎を患う。
7月吐血し、不治の病の結核に冒される。
妻子を実家に帰し純孝は大阪の療養所へ入所する。
純孝も明石に移り夫婦枕を並べて療養生活に入る。
明治43年
(1910)
5月回復のきざしなく妻子を明石に残し、一人郷里に帰る。
明治44年
(1911)
大晦日から正月3日まで連続吐血し、1月19日雪の夜乳母であった前田忠一の家に移る。
9月25日ひっそりと死去する。享年31歳
出典・・・浜坂先人物語
編集・・・浜坂先人物語編集委員会
発行・・・浜坂町教育委員会