浜坂観光協会 HAMASAKA Tourist Association
宇野雪村(うのせっそん)

~現代芸術の先覚者~

宇野雪村宇野雪村
 昭和五十九年(1984)三月のことでした。第二十五回、毎日芸術賞を宇野雪村が受賞して、その記念の祝賀会が、東京虎の門のホテルオークラで挙行されました。来賓、書道関係者、知人達、約五百人の人々が集まっていました。それぞれに錚々たる顔ぶれでありました。私たち郷里の者も招待されました。各界の代表から祝辞が述べられ、花束贈呈、鏡開き、乾杯、会食のあとに、雪村先生の挨拶がありました。

 「私は、兵庫県の日本海のある雪の降る浜坂町がふるさとです。遠い故郷からはるばる来てくれています」開口一番、自分の郷里の紹介でした。若くから郷里を離れて、古希七十歳を過ぎるまで、書の道を一筋に、五十有余年歩み続けてきた感懐がいっきょにこみあげてきたのでしょう。咄々と語るその眼頭にきらりと光るものが見えました。

 雪村の書の道はきびしいものでした。戦争、そして敗戦による価値観の大転換、特に現代書といわれる今までの伝統を超越して新しい書の創造に挑戦するということは、風当りがきつく、非常に苦しくきびしい試練の連続であったのです。そうした、身を削るような苦闘の生活の中で郷里の父母や友人、そして思い出の深い山川は、いつも心のよりどころになって励ましてくれていたのです。雪村にとって郷里浜坂は、決して忘れることのできないものとして脳裡に刻みつけられていたのです。

宇野雪村生家宇野雪村生家
 雪村は明治四十五年(1912)浜坂町二日市に生まれました。丁度、村の下手に山陰線の鉄路工事が完了して、初めて汽車が運転開始した頃です。農家、宇野甚蔵の長男(本名は武雄)でした。その頃は岸田川が村中を流れていました。穴観音(戸田の川向こう)の岩棚でヤスで鮎やウグイを突き、田井の浜で貝をとって、夕べの食卓をにぎわした思い出は、生涯忘れられなかったようです。わけても、きつい父親の農作業を、長男であるという自覚から、一生懸命に手伝った苦しさもあったが、両親や弟妹が、心を寄せ合って生きてきた農家のくらしは貧しい中にも温かい情愛に包まれていて、その労苦を癒してくれました。そうした少年時代の思い出は、彼の書の生涯のとって強い心の支えになっていたのでした。雪村は小学校時代から割合に体格の大きい方であったので、相撲は強かったです。当時は村々の氏神さんの祭礼にはきまって奉納相撲がありましたが、雪村は「いつも出場して勝っていた」と得意に述懐していました。

 昭和二年(1927)十五歳になった四月、御影師範学校(現、神戸大学)に入学し、早速相撲部に入って活躍しますが、「相撲はふんどし一丁だけで、金が掛らんからなあ、親父に負担をかけんように相撲部に入ったんだよ」と言っていましたが、この相撲の技に必要な“力をためる”“瞬間に力を発揮する”などの体験が書の筆づかいの呼吸に役立っているのではないかと思われます。

『岸田川 子供の頃 鮎 鮭 をとった』『岸田川 子供の頃 鮎 鮭 をとった』
 師範学校に入った年の秋、上級生のすすめで、書道誌『書鑑』を購読して練習し、競書に作品を出すようになったことが、そもそも書を志すきっかけになりました。『雪村』という号もこの頃から使いはじめています。但馬の雪の降りつもる僻村の出身であるということからでしょう。清潔な音で耳にここちよく響く、いい号です。

 本格的に書の道を精進をするようになったのは、師範学校を卒業して、五ヶ月間、義務として軍隊に入り、その秋除隊して、神戸市内の小学校に教員として勤務してからのことです。昭和七年二十歳の秋のことでした。その頃有名な書家であった上田桑鳩の主宰する『神戸又玄社』に入会して、直接指導を受けるようになってからです。

『但馬牛 牛小屋で お産を見た 子牛と河原で 親牛を長谷 に放って 陽の落ちる頃 田んぼを 牛と歩んだ』『但馬牛 牛小屋で お産を見た 子牛と河原で 親牛を長谷 に放って 陽の落ちる頃 田んぼを 牛と歩んだ』
 昭和十四年(1939)に桑鳩が中心となって註01『現代書運動』を推進していた団体である『書道芸術社』の同人に註02推挙されました。雪村は、どんどん力をつけ、桑鳩からも信頼されるようになっていましたが、戦争はいっそう激しさを増してきたので、その団体は、翌年には解散するはめになりますが、この団体の揚げた思想は、雪村に新しい目を開かせました。それは、『書は芸術である』という意識を自覚させたことと、書は単に旧い伝統を継承するだけでなく、『時代を反映する現代の書』を創造しなければならないとする使命感を持たせたことでした。

 今、考えると、本格的に書への道を志すに当たって、上田桑鳩に師事したことは、現代書創造運動にとっても、わが国の書道にとって、きわめて重要で意義深い人間の出会いであったと言えます。

『是』『是』
 雪村が終生主宰した『奎星会』は、昭和十五年、前途した書道芸術社の解散の直後、桑鳩を代表として結成されたもので、雪村はその重要なメンバーとして活躍しました。ついには、桑鳩の思想に強く共鳴して、わざわざ東京に移り住むまでして、書業に専念することになるのです。しかし、戦局は一段とけわしくなり、東京の空爆による被害は大きくなるばかりで身の危険を感じた雪村は一旦は神戸に帰り、阪神間を拠点にして、現代書運動を継続していきました。

 昭和二十年(1945)いよいよ、戦争が終わると、いち早く、師桑鳩と連絡をとり、わが国書壇の再建について協議を重ね、戦後の註03前衛書運動に率先して活躍しています。

 昭和二十六年(1951)再び上京し、師桑鳩の世話でその隣に居を定めて、師と協力して奎星会の整備充実に奔走するかたわら、書の習練に骨身を削る日々を続けました。

 上京後の雪村は、新しい書の道を求めて、めざましい活動を精力的に展開しています。次々に、現代書の製作と出品。註04日展の審査員に就任、大東文化大学講師、中国訪問を九回も行っています。奎星会の代表。毎日書道展諮問委員。文化使節として渡欧。

 それは分刻みの日程をこなす日々を続ける活躍ぶりでした。大阪万国博の世界美術展に超大作品を出品して内外の人々を驚かせたのは有名です。その他、原稿執筆と著書の出版等々、三十歳代の後半から五十歳代の後半にかけての二十年間は、文字通り息つくひまもない程、多彩な活動を展開しました。それは現代書道界の先頭に立って、新しい創造に挑戦し、今までになかった新しい書を開拓した先覚者としてのめざましい活躍に出会ったのです。

宇野雪村著書宇野雪村著書
 雪村は、そうした華やかな活動の反面、書の原点である古代中国の文化の研究という地味な研究をこつこつと行っていました。古墨・註05古硯寺、文房古玩(習字の用具)の研究と蒐集、中国の古代占いに使った註06甲骨文字の研究、中国殷時代(紀元前1300)青銅器に刻まれた文字の研究、古代遺跡から出土する註07木簡の研究、書聖といわれた註08王義之から唐の註09欧陽詢、註10緒遂良、註11顔真郷等が書いた古書跡の研究とその書法の習熟の練磨にはげんでいました。文房四宝と法帖(習字の手本)の研究では、著書も多く、わが国では、権威者の一人であると言われています。その他、書道に関する多くの著書を世に出していますがいずれも学識の深いもので、貴重な文献となっています。

 雪村の前衛書や現代書の作品がただ新しさを追求しただけでなく、見る人々を魅きつけるのは、古典に根を張ったその研究によって身につけた学識の深さに立脚したものであるからです。雪村の書に理論性がそなわり、客観的で見る人に安心感を与えると言われている理由も、ここにあるのです。また雪村の書作に深い潤いが感じられるのも、こうした研鑚による集積が作者の自信となって書に現れるからでしょう。

『貧』『貧』
 雪村は、昭和五十八年(1983)三月、東京三越百貨店で『宇野雪村書業展」を、次いで同年八月には、中国の北京美術院で、「日本宇野雪村書法展」を開催しました。ちょうど古希を越えたばかりの年齢で、今までの書家がなし得なかった快挙をなし遂げたのです。そのことがきっかけとなって毎日芸術賞の受賞となったわけですが、毎日芸術賞というのは、わが国でも非常に権威のある賞で、参考までに、同日に受賞された方々を挙げると、作家の水上勉、音楽の朝日奈隆、デザインの亀谷雄作、設計の磯崎新、歌舞伎の市川猿之助、雪村を入れて六名です。それぞれの芸術部門を代表するにふさわしい方々であることからもわかると思います。特に書道部門での受賞はむずかしく、それは書そのものに芸術性があるかどうかが問題になるからではないでしょうか。

 雪村が、この賞を受ける理由は、「賞そのものの約束の中にあって、書を芸術の領域まで広め、そして高め、昇華させた」という功績によるものでした。

『剛健』『剛健』『至矣』『至矣』『念』『念』
 雪村は、「文字という約束の上に、約束を越えた美が生まれる」と、よく言っていました。また、「古典に根を置いた理論性の強い前衛書の創造を目指して、運動を起こし、たえず自己を練磨してきたきびしい道のりであった」と、述懐してもいました。

 雪村の書は字というよりも「書」であり、その「書」は人間の深い心の奥底にあるものを紙の上に墨で具象化するという造形の芸術をみごとに確立したものでした。どの作品にも、自分の信ずる新しい方向に大胆に挑戦する迫力があふれています。新しい分野を築いていくというのは非常に大変なことです。ことに書道というような長い伝統のあるものの変革はきわめてむずかしいものです。誰もやったことのない領域に出ていって、それを完成していくというのは、もちろん天分があるということもありましょうが、底知れぬ苦労と激しい気迫による勇気がなければできないものです。ある人は、「註12不世出の人雪村」とまで賞賛しています。

 雪村は、郷里浜坂をこよなく愛した人でした。毎夏、学生を連れて、浜坂荘で研修をしていました。そしてその日程の中に一日は、海遊びを必ず組み込んでいました。場所は、日本海特有の荒磯で奇岩がそそり立った景観が見えるところを選びました。雪村は、学生と一緒に貝とりに熱中していました。「私は浜坂の海がとっても好きです」と言っていましたが、彼を育んだふるさとの大自然が、書の創作の大切な肥となっていると思えるのです。

 昭和五十九年(1984)雪村の個展「ふるさと讃語展」が浜坂で開催されました。書の味わい深さは言うまでもありません。郷里の自然と人を、少年の頃の純な眼を通して、淡々と語る文章は、哀歓入り混じって美しい讃辞となって註13揮毫されています。見る人の心をとらえて離しませんでした。

 新しい書の芸術の道を拓くという崇高な雪村の営みはけっして我々の手の届かないような遠いところのものではない。作品を素直に観賞する者には、その感性をゆさぶり、作者の心が語りかけてくれるものだ。と気付かせてくれた収穫の多い展覧会でした。

『武』『武』『顔』『顔』
 平成七年三月に入って間もなく浜坂町の主催で約一ヶ月間、町の先人記念館で「宇野雪村書展」が開催されました。雪村は、数年前から脳梗塞で治療を続けている状態ですから、新しい作品は少なく、多くは今までの作品が主でした。雪村は、「それぞれに書いた頃が思い出されて懐旧の情が湧く」と、六十有余年間の思いを述べています。この個展の閉幕のすぐ後、四月六日の未明、雪村は急に世を去ったのですが、故郷での展覧会が最後になったことを思うと因縁深いものがあります。

 享年八十三歳、全国に広がる後継者たちや書道界の人々に惜しまれ哀しまれた逝去でした。しかし、雪村が築いた現代書という新しい芸術は、その後継者や多くの共感者によって、さらに強固のものになって、永く発展していくでしょう。その月の二十八日、盛大な葬儀が東京青山斎場でおごそかに取り行われました。導師は郷里の菩提寺住職小玉大誠師があたられ、戒名も同住職の贈ったものです。『尊王院殿釈雪村住導居士位』。きっと、かたときも忘れることのなかった故郷浜坂町の出身にふさわしい贈り名です。

 雪村は、人々に深い感銘を与えた書道家であり、書を芸術にまで高めるため、戦前戦後の昭和、平成と、勇敢に生き抜いた人でした。そして遂には、現代書という新しい芸術の領域を構築した功績は、書の歴史の上にさん然として永く輝くことでしょう。雪村は、広く書の道を志す人々に希望を持たせただけでなく、ふるさとの人々にも夢を与え続けてくれた、私たちの郷土の誇りとするにたる人物であります。

『孤高の岳人 加藤文太郎 ひた吹雪く 北鎌尾根に 命かまけ 積みしケルンの 高く志るしも』『孤高の岳人 加藤文太郎 ひた吹雪く 北鎌尾根に 命かまけ 積みしケルンの 高く志るしも』(絶筆)

■宇野雪村
 【注釈】

註01
現代書運動・・・書を単なる文字・記号として書くのではなく、絵画的な造形芸術として高めようとする。
註02
推挙・・・推薦されること。
註03
前衛・・・まだ、何者によっても開かれていない新しい分野を開こうとする運動。
註04
日展・・・日本で最も権威のある芸術展の一つ。絵画・彫刻・書道など総合芸術展覧会。1900年官展として始まったが、現在は法人として毎年秋に行われている。
註05
古硯・・・古い由緒のある硯。
註06
甲骨文字・・・亀の甲らを火に入れ、その裂け方で占ったことからできた中国の古代文字。
註07
木簡・・・紙のない時代、細い木の板に書いた帳簿を糸でつないでまいた。そのため、今でも本を一巻と数える。
註08
王義之・・・(321~379)中国晋の時代の文化人で、詩書に秀いで、草書、隷書で古今第一人者で現在でも、習字の手本となっている。
註09
欧陽詢・・・中国の唐の時代の書家楷書の規となっている。
註10
緒遂良・・・中国の唐の時代の書家で太宗皇帝に仕える。
註11
顔真郷・・・中国の唐時代の書家で玄宗皇帝に仕え今でも、書の手本となっている。
註12
不世出・・・めったに世にあらわれないほど、すぐれていること。
註13
揮毫・・・筆で書や絵をかくこと、特書の場合を多く言う。

 【年譜】
年号
(西暦)
ことがら
明治45年
(1912)
1月浜坂町二日市の宇野甚蔵の長男として生まれる。
昭和2年
(1927)
4月御影師範学校に入学する。10月学書を志し、雪村と号す。
昭和7年
(1932)
3月御影師範学校を卒業し、神戸道場小学校の訓導となる。
11月書家上田桑鳩の通信教授を受ける。
昭和15年
(1940)
8月宇高貞子と結婚する。
10月東京の大原小学校に奉職する。また、奎星会を結成する。
昭和24年
(1949)
11月第5回日展に「烏夜啼」が入選、特選となる。
昭和29年
(1954)
10月第10回日展審査員となる。
昭和31年
(1956)
10月日展を脱退する。
昭和36年
(1961)
4月第2次中国訪問書道代表団として、中国を巡る。
昭和43年
(1968)
浜坂小学校校歌を揮毫する。
昭和44年
(1969)
1月奎星会の代表となる。
昭和45年
(1970)
5月大阪万国博覧会世界芸術展に「SYO」(昌)を出品する。
昭和48年
(1973)
4月大東文化大学教授となる。
昭和49年
(1974)
紺綬褒章を受ける。
昭和50年
(1975)
日本代表書家ブラジル親善使節団副団長として、ブラジルを訪れる。
昭和53年
(1978)
3月玄美社団長として中国を巡る。
日本代表書家フランス親善使節団団長として、ヨーロッパ各国を巡る。
昭和54年
(1979)
10月毎日書道芸術友好訪中団団長として中国を巡る。
昭和57年
(1982)
浜坂中学校の「剛健」額を揮毫する。
昭和58年
(1983)
8月北京で「日本宇野雪村書法展」を開催する。
昭和59年
(1984)
第25回毎日芸術賞を受賞する。浜坂町多目的ホールで「ふるさと讃語展」を開催する。
昭和63年
(1988)
大庭小学校校訓「強く賢く美しく」を揮毫する。
平成元年
(1989)
3月脳梗塞で入院。退院後自宅で療養する。
平成7年
(1995)
2月浜坂町先人記念館で特別展「宇野雪村書展」を開催する。
4月亡くなる。享年83歳。
出典・・・浜坂先人物語
編集・・・浜坂先人物語編集委員会
発行・・・浜坂町教育委員会