浜坂観光協会 HAMASAKA Tourist Association
井上寒甃(いのうえかんしゅう)

~書画に生きた自由人~

井上寒甃肖像画井上寒甃肖像画
1.はじめに
 町の古老に「昔ばなし」を聞いて回りました。「井上寒甃」さんのことを聞きたかったのです。寒甃さんが亡くなってもう百年になりますから、実際に交際した人はありませんが、寒甃さんについての語り伝えは聞くことができました。その一つは「寒甃さん」の呼び方でした。「寒甃さん」と呼んだり「註01法眼さん」と呼んだり「上人さん」と親しんで呼んだ人と、反対に寒甃さんは大酒飲みで乞食坊主だったという人もありました。しかしどの人も寒甃さんは書画の大家で京都の註02公方さんのお師匠さんだった、と共通して語ってくださいました。そして家に大切に所蔵している寒甃さんの作品を見せてくださいました。

 そして寒甃さんの作品を見れば見るほど、優れた作品に心を奪われ、やがて寒甃さんの人物像に興味を持ちました。

寒甃拝領の『御所人形』寒甃拝領の『御所人形』
2.御所人形と寒甃
 井上寒甃が拝領した註03御所人形が二日市村国正寺に寺宝として秘蔵されています。この人形を納めた木箱の表に「註04在閑院宮様 御玩具拝領」裏に、「蔓延元年 庚申之春三月吉祥」とそれぞれ三行に分けて書かれた墨書があり、確かに拝領人形であることがわかります。この人形は蔓延元年(1860)三月、京都の宮家・閑院宮家より寒甃に註05下賜されたものです。この時寒甃は五十三歳でした。

 これは御所人形特有の頭の大きな体の丸々とした、幼児の裸人形で、ふくよかな註06体躯に白い肌、金糸銀糸で鶴亀の模様が刺繍された錦の布をまとい、頭には立ち註07烏帽子をかむったすぐれた人形です。国正寺所蔵のこの人形の作者は不明ですが、京都国立博物館・「さが人形の家」にも同じ作者と見られる人形があって大切に保存展示されていますので、一流の芸術品だとわかります。どうしてそんな人形が宮家から下賜されたのかわかりませんが、当時寒甃は、優れた芸術家に朝廷から与えられる「法眼」という位にあって、御所で宮廷の人々に書や絵の指導をしていましたから、閑院宮家の誰かに指導をしたお礼ではなかったでしょうか。やがて寒甃は六十歳ごろ高徳の僧や芸術家の最高位の「法印」にまで登っています。

 ところで寒甃に下賜されたはずのこの人形がなぜ二日市の国正寺に秘蔵されているのでしょう。

二日市国正寺山額『谷垣山(寒甃書)』二日市国正寺山額
『谷垣山(寒甃書)』
 寒甃は、国正寺の七世小玉大順師と特別の註08懇意な間柄でした。ですから寒甃は、浜坂に帰省するごとにここに立ち寄り、二人で酒を酌み交しては、月日も忘れて長期滞在して語りあったと伝えられています。おそらく寒甃は、御所から拝領した人形を京都から生家の井上家に持ち帰ろうとしましたが、途中で国正寺に立ち寄り、大順師との註09饗宴の勢いでここに寄贈してしまったものらしいです。財物に無欲で註10天性磊落な彼には、宮家拝領の宝もただの人形と変わらなかったのでしょう。いかにも寒甃のこだわりのない人柄を表しています。寒甃は註11禅道者としても書画の達人としても高名でしたので、諸国の寺院や註12豪家に招待され書画の註13揮毫をしていますが、とりわけここには襖や掛軸など優れた多くの作品を残しています。国正寺本堂の正面にある山号「谷垣山」の額は彼が書いたものです。

 寒甃は、生涯妻を註14めとらず、住居も定めず、禅の修業と書画の道に生きた人でしたが、この人形の話は彼の註15融通無碍な自由人としての面目が註16躍如としています。

井上家(児島屋)屋敷絵図(1)井上家(児島屋)
屋敷絵図(1)井上家(児島屋)屋敷絵図(2)井上家(児島屋)
屋敷絵図(2)
3.寒甃のおいたち
 寒甃は文化四年(1807)浜坂村の豪農「児島屋」の八代目井上又兵衛と里津の末子として生れました。しかし父の又兵衛はその年に亡くなり、母とも七歳で死別します。両親を失った寒甃は、井上家の家督を継いだ長兄又九郎の保護のもとで育ち、のちに朝来郡糸井村(和田山町)の名家吉井家に嫁ぐ姉の「のゑ」に可愛がられて成長しました。幼名は連八、成長するにつれて清三郎、清左衛門と名を変えています。書家としての字名は劃斎ともいいましたが、通称は寒甃と呼ばれて親しまれました。

 生家の井上家は現在の新町一帯の広大な屋敷に註17豪壮な邸宅をかまえ、浜坂村の政治的経済的支柱になっていました。明治六年(1873)に画家池田顕信が描いた井上家屋敷絵図が残っていますが、母屋を取り囲むように米蔵が並び、村の子どもたちの学ぶ学習棟や大きな松の木の上には、コウノトリが巣をかけているのまで描かれています。

 そういう家柄に生まれた寒甃が、いつ頃どんな理由で仏門に入り、どんな学問や修業をしたのかは、はっきりした記録が残っていなくてわからないのです。だが、一つだけ資料が残っています。

田井自得寺の掛軸(観月和尚書)田井自得寺の掛軸
(観月和尚書)
4.観月和尚と寒甃
 浜坂町田井に「自得寺」というお寺があります。そこに一本の掛軸があって、そこに寒甃の修業の様子や人柄を伝える文章が書いてあったのです。註18京都五山の一つ相国寺の支院慈雲寺の観月和尚が記録したものです。そこには次のようなことが書いてあります。

 「私(観月)の友人に井上寒甃という人がいて、当代まれな註19器量人ですが、少し風変わりな人物でもあります。酒が大好きで書や絵画の技に優れています。人柄は心が広く快活で、物にこだわりがありません。世間の註20俗事にわずわらされず、天馬が自由に大空を飛翔するようで、普通の生活に繋ぎ止めることも出来ません。禅寺の僧たちと意気投合して歓談し、書劃の研鑚に務めるかたわら、時間があれば『碧巌録』という本を読んで研究し、中国の古誌の研究が日課でした。彼の志の高さはとても言葉で表現できません。」

 これによると寒甃が、人間味豊かで、しかも一道一芸に優れ、その上厳しい修業をしていたことがわかります。この文章はさらに続けて次のような寒甃の非凡さも記録してあります。

 安政七年(1860)一月十日、五十四歳の寒甃は、なんと自分自身の「死の法要」を行っているのです。京都の萬年山相国寺の支院慈雲院で、註21浄財を投げうち、祭壇を設け、多くの僧を招いて、生きながらの葬儀をしたのです。「私(観月)もこの式に出席して、彼の位牌に『鉄柱院法眼寒甃居士』と法名を書きました。その時、寒甃が一文を示しましたが、その文に彼の事物の註22神髄を見抜く註23卓越した学識が、人々を圧倒する力として表れていました。生前に死の法要を営むなど、寒甃の生と死は註24夢現一如でつらぬかれているものでした。」原文は「漢文」ですが、生きたままで法名を註25導僧から授かるという寒甃の常識を越えた奇人ぶりが、美しい言葉でつづられています。

寒甃書(屏風1)寒甃書(屏風1)寒甃書(屏風2)寒甃書(屏風2)

寒甃書『龍』寒甃書『龍』
5.寒甃酒を好む
 寒甃は酒が好きで、酒にまつわる註26逸話は色々あります。彼は、自分の酒好きは「癖」で欠点ではなく、むしろ長所の一つとして註27自認自賛していたようです。寒甃が完成した作品におす註28落款(印鑑)が町内に九個残っていますが、その一つに「酒くれて過しある身は君さんとこちらへふらと行き給うべし」という狂歌を刻んでいます。こんな落款を自慢の作品におすところが、彼の本領であり、人間の大きさかも知れません。

 寒甃は、作品を作成するとき、墨のすり上がる前、必ず一盃の酒をあおり、一気に書きあげたそうです。隣家の井上家五右衛門宅で屏風一双に「書」を依頼され、酒を飲んで酔っ払って、一字をやっと書いただけで終わったこともありました。また、「註29自分には酒の癖があるが、世間の人には他人に註30おもねる癖がある」という皮肉な五言の漢詩を書いて酒癖を自慢したものもあります。

 友人知人宛の書簡でも、必ず寒甃は酒をふるまわれた礼を述べ、酒まかせになった自分を謝っています。まことに彼の人生は酒あってのものであり、まわりの人たちもこうした酒癖を「上人さんの癖」としてむしろ親しんでいたようです。

 寒甃に註31瓢然と座した仙人姿の「自画像」が一つ残っています。落葉を燃やす煙を註32半眼で見上げ、黒衣を片肌脱ぎにした痩せた体にひもで結んだ長髪をたらし、長い杖を持ったそばに、酒の入ったひょうたんが置いてあります。註33天衣無縫、註34磊落無喝な姿です。

寒甃書『宝珠』寒甃書『宝珠』西光寺山額『壽徳山(寒甃書』西光寺山額
『壽徳山(寒甃書』
寒甃書『尊者画』寒甃書『尊者画』

西光寺山門西光寺山門
6.郷土を愛した寒甃
 寒甃の作品は町内だけでも数百点を数え、註35宝珠、漢詩・絵・讃・屏風・襖・掛軸と多彩ですし、数少ない書簡でも郷土の人々との人間関係がうかがわれます。今、「先人記念館」となっている「七釜屋」森家とも交流が深くたびたび訪れ歓談したようすが書かれています。京都御所に出入りして書画の指導をするような高位の人が、故郷を想い続け、故郷の人々を大切に思い、帰省すれば実に気軽に、各家々を訪ねて筆をふるいました。郷土のお寺の「山号額」や家々の庵名、部屋の標識、碑の文字など今でもいくつも使われています。井上家の旦那寺浜坂の西光寺には、本堂再建にあたって十両という大金を寄進していたりもします。

西光寺再建棟札(周愚=寒甃のこと)西光寺再建棟札
(周愚=寒甃のこと)

寒甃建立の『筆墓』(勝願寺境内)寒甃建立の『筆墓』
(勝願寺境内)
7.寒甃の死
 寒甃は明治十三年(1880)京都相国寺からの帰り道、朝来郡和田山町の「吉井家」にしばらく滞在しました。吉井家は糸井谷一帯の豪農で姉の「のゑ」が当主の吉井源造に嫁いでいました。そこで病気になり、二月十九日ついに註36不帰の客となりました。彼の遺体は円山川を船で下り、日本海に出て海路をとって井上家に帰ったと伝えられます。井上家の菩提寺西光寺での法要に歌人守孝という人が「寒甃の追悼に詠める」と詞書きして

 あだし野の烟と消えて無き人の
  手向けに結ぶ我が涙かな

と偉大な文化人を失った悲しみの気持ちを捧げています。

 寒甃の法名は『鉄柱院法眼寒甃居士』といい、生家の井上家の墓地に埋葬され、故郷の山河に静かに抱かれて眠っています。

■井上寒甃
 【注釈】
註01
法眼・・・僧の位の一つ。
註02
公方・・・天皇のこと。
註03
御所人形・・・江戸時代に作られた男児の裸の人形。
註04
閑院宮家・・・天皇家の親類。
註05
下賜・・・偉い人から物をいただくこと。
註06
体躯・・・からだのこと。
註07
烏帽子・・・平安時代に元服した男子のかぶりものの一つ。
註08
懇意・・・親しいこと。
註09
餐宴・・・客を持てなすこと。
註10
天性磊落・・・生まれつき細かいことにこだわらないこと。
註11
禅道者・・・禅の道を教える人。
註12
豪家・・・金持ちで、勢力のある家。
註13
揮毫・・・書や絵を書くこと。
註14
めとる・・・結婚すること。
註15
融通無碍・・・すべてのことにとけこむこと。また交わること。
註16
躍如・・・生き生きとした様子。
註17
豪壮・・・りっぱなようす。
註18
京都五山・・・京都の天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。
註19
器量人・・・知恵と人徳のある人。
註20
俗事・・・つまらないこと。
註21
浄財・・・お寺や善意のために寄付すること。
註22
神髄・・・ものごとの根本。
註23
卓越・・・他よりもすぐれていること。
註24
夢現一如・・・夢と現実が一つになること。
註25
導僧・・・仏の教えを導く僧のこと。
註26
逸話・・・広く知られていない話。
註27
自認自賛・・・自分を認め、自分をほめること。
註28
落款・・・書画に作者が署名すること、その署名。
註29
(原文)寒甃有酒癖 世上有阿癖 笑是人間精 無癖又応癖
註30
おもねるくせ・・・おべっかをつかうこと。
註31
瓢然・・・ふらふらしていること。
註32
半眼・・・目を半分開くこと。
註33
天衣無縫・・・自然で完全なたとえ。
註34
磊楽無喝・・・細かいことにこだわらないこと。
註35
宝珠・・・とがった頭の左右から炎が燃え上がっている姿(玉)。
註36
不帰の客・・・死ぬこと

 【年譜】
年号
(西暦)
ことがら
文化4年
(1807)
浜坂村の豪農児島屋8代井上又兵衛の末子として生まれる。
安政年間
(1854
-1860)
「法眼」の位を授かる。
安政7年
(1860)
京都の相国寺の塔頭慈雲寺の食客となる。7月相国寺において自分自身の葬儀を行う。
万延元年
(1860)
3月京都宮家閑院宮家より「御所人形」を拝領する。
文久3年
(1863)
浜坂の西光寺の本堂再建に、金拾両を寄付する。
慶応4年
(1866)
勝願寺境内に今まで使用した筆や硯に感謝する意味から「筆墓」を建立する。
明治13年
(1880)
2月京都相国寺からの帰り和田山町糸井谷の吉井家に滞在中、死去する。享年74歳
出典・・・浜坂先人物語
編集・・・浜坂先人物語編集委員会
発行・・・浜坂町教育委員会