浜坂観光協会 HAMASAKA Tourist Association
谷角日沙春(たにかどひさはる)

~異色の画家~

谷角日沙春谷角日沙春
 谷角日沙春は本名を久治といって、明治二十六年(1893)八月二十二日諸寄に、谷角繁太郎の次男として生まれました。

 久治は小学校時代から絵を描くことが好きでした。小遣いをもらうと、浜坂へ行って画用紙を買って来ては絵を描きました。また、家族と山仕事に行った時には、他の者が三度に分けて運ぶ重荷を一度に運び、残った時間を絵の勉強にあてました。久治が好んで描いた草木や動物や人物の作品は立派で、家族や友人を驚かせました。学校の成績でも特に「図画」が得意で、卒業が近づくにつれて、「将来は絵描きになりたい」という希望をもち始めていきました。

 しかし、両親は絵描きでは飯は食えないと言って、久治の画家志望には反対でした。

 学校を卒業すると、父と一緒に船に乗り込み廻漕業の仕事を手伝うことになりました。やがて、父が船長をやめたので、適当な仕事もないままに嫌々ながら漁師となって数年を過ごしました。久治は漁師として働いている間も、画家になる夢を捨てていませんでした。それどころか、より一層強く、画家になりたいと思うようになりました。

 久治の一途な思いに、父の心も動かされ、兄である治右エ門に相談しました。それほどまでに本人が望むなら何とかしてやらねばということになり、当時浜坂の満願寺に滞在していた京都の画家・註01立脇泰山に入門の許しを取り付けてくれました。

 両親もついにあきらめて、家からは今後一銭の仕送りもしないという約束でしぶしぶ許しました。久治は自分の夢を捨てず、とうとう絵描きへの道を歩み始めることになりました。久治は自分の人生を積極的に生きるために、自ら考え、自ら行動したのです。

谷角日沙春画「少女と夕顔」谷角日沙春画
「少女と夕顔」
谷角日沙春画「ツヅミ(大正3年)」谷角日沙春画
「ツヅミ(大正3年)」

谷角日沙春画「天女(年代不詳)」谷角日沙春画
「天女(年代不詳)」
 日本画に対して、少年期、青年期を熱い思いで過ごした日沙春は、その後、画家として大成していきました。大正時代の女性を描いた時代、昭和時代の優美と気品に満ちる時代、独創的な直線画・註02霊彩画の時代、晩年に至る仏画時代と、彼は画家としてはもちろんのこと、人としても成長し続けていったのです。

谷角日沙春画「猫と八仙花(昭和26年)」谷角日沙春画
「猫と八仙花(昭和26年)」
 彼が大成していくにあたっては、中国の「註03老荘思想」という考えが大きな支えとなっていました。この考えは、形だけを大切にしようとする道徳や考えを低次元のものとして否定し、自然と人間とが調和していくことや平和を望み戦争を避ける政治や道徳を大切にするものです。さらに、この道を歩む人は、毎日を生きていくための感性・心を大切にしました。ですから、文学性や芸術性に富んだ考えでもあったのです。中国で生まれたこの思想は、その後、汚れ乱れた社会に反発し、現実的な課題から目をそらし理想の社会を話し合うためのものとなり、悪政への註04レジスタンスの意味をもち、人の感性や心を尊敬する長所を発揮しました。しかし、その一方では、現実から逃げようとする手段になっていく危険性をもったのです。

谷角日沙春画「桃太郎(昭和26年)」谷角日沙春画
「桃太郎(昭和26年)」
 谷角日沙春は、この「老荘思想」によって日々の生活を送り、絵を描きつづけたのです。彼は、「画家が社会的地位や名声やお金を求めて絵を描くことは間違っている。自分は自分の楽しみのために絵を描く。」と言い、「自分は作画に対して作の貨としてではなく生活のたすけとしていただく。生活は神聖であることをこい願っている。」と書き、貧しくても清らかに生きていこうとしました。中央の絵の会の行き来が絶えても、孤立を恐れず力強く生き抜き、ひたすら自分の絵の道に精通し、直線画と霊彩画へと飛躍できたのも、この思想によるところが大きいことがうかがえます。

谷角日沙春画「世世観世音(昭和36年)」谷角日沙春画
「世世観世音(昭和36年)」
谷角日沙春画「文殊図(昭和43年)」谷角日沙春画
「文殊図(昭和43年)」

 さて日沙春が絵を美術・芸術として大成させ、人としても大きく成長していった時期は、直線画と霊彩画と晩年に至る仏画時代といえます。昭和二十六年(1951)頃から没する昭和四十六年(1971)三月までと言えます。

 日本画のもつ描線の美しさを直線によって表現しようとし、その直線でものを表現する最もよい方法が三角形だとし、構成のすべてを三角形の集積で組み立てる三角画を描いたのです。この時期の彼は、河童の姿態を独特の解釈で構成して、絵として表現しているのです。昭和二十七年(1952)に描かれた六曲屏風一双の「渦して鳴」と題された三角画の十六匹の河童の作品は、その代表作と言えます。その後、大小さまざまな三角画で組み合わされ、その三角形を濃淡いろいろな色彩でいろどる霊彩画へと発展します。色数も形態も極めて単純明快ですが、そこに複雑で幻想的な思想を表現しようとしたのです。

谷角日沙春画「不動図(昭和41年)」谷角日沙春画
「不動図(昭和41年)」
谷角日沙春画「紫の土(昭和25年)」谷角日沙春画
「紫の土(昭和25年)」
■谷角日沙春
 【注釈】
註01
立脇泰山・・・温泉町出身の画家。
註02
霊彩画・・・日沙春が昭和30年代~40年代までの10年間、描き続けた点線画
註03
老荘思想・・・中国古代の思想・哲学者・老子・荘子の説いた学説で、自然のままで人の手を加えないことを最高の美学とする思想。
註04
レジスタンス・・・何かに反対すること
註05
不動明王・・・右手に剣、左手に羅索を持ち、火焔を背負った五大明王の一つ
註06
観音像・・・救いを求めている人々を救済する菩薩。
聖観音の他に、千手・十一面・如意輪観音などがある。
註07
達磨・・・インドに生まれ、禅宗を開いた僧。
註08
屈原・・・中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人
註09
陶潜・・・中国、六朝時代の東晋・宋の詩人
註10
聖賢像・・・知徳のすぐれた人の像。

 【参考文献】
『異色の画家 谷角日沙春』自費出版 西墻 澄雄著
『谷角日沙春展 図録』浜坂町 平成6年6月

 【年譜】
年号
(西暦)
ことがら
明治26年
(1893)
8月浜坂町諸寄の谷角繁太郎の次男として生まれる。
明治41年
(1908)
3月諸寄尋常小学校卒業後、家業の廻船業を手伝う。
大正2年
(1913)
浜坂の満願寺に滞在していた画家立脇泰山に入門する。
書家菅原から「雪斎」の号をもらう。
9月京都にもどった泰山をしたって京都にでる。
大正3年
(1914)
12月菊池契月に入門する。
大正7年
(1918)
10月第12回文展に初入選する。
大正9年
(1920)
4月東京に出て、有本十太郎氏宅に落ち着く。
5月新吉原の辰稲弁楼に食客として住み着く。
10月第2回帝展に入選し、この頃より号を「日娑春」と称する。
大正12年
(1923)
7月有本家の行儀見習いに来ていた鎌田辰次の長女ふくゑと結婚する。
9月関東大震災にあい、京都に引き上げ、さらに郷里諸寄に帰る。
大正13年
(1924)
6月再び京都に出て、菊池契月宅に住み込む。
大正15年
(1926)
長女和子が誕生する。以後、4男6女の子宝に恵まれる。
昭和4年~14年
(1929
-1939)
帝展・金沢市展覧会・京都市美術展覧会・文展など各種の展覧会に作品を出品、第14回帝展で特選に入賞し、以後無鑑査となる。
昭和15年
(1940)
1月「日沙春」に改号する。
昭和20年
(1945)
9月4男厚が死去する。
昭和21年
(1946)
5月第2回京都市主催美術展覧会に「毛毬」を出品したのを最後に、画壇との交渉を断つ。
昭和25年
(1950)
この頃から曲線による作画に限界を感じ、直線画を試みる。
昭和28年
(1953)
父繁太郎が死去する。
昭和29年
(1954)
母よしが死去する。
昭和31年
(1956)
京都御所(小御所)復旧のため、襖絵2枚を描く。
昭和36年
(1961)
この頃から不動明王・達磨・観世音菩薩等の仏画を描く。
昭和46年
(1971)
3月4ヶ月間を要して「不動図」を完成させ、絶筆となる。
3月21日心臓麻痺のため自宅において死去する。享年77歳。
出典・・・浜坂先人物語
編集・・・浜坂先人物語編集委員会
発行・・・浜坂町教育委員会