浜坂観光協会 HAMASAKA Tourist Association
加藤文太郎(かとうぶんたろう)

~生まれながらの単独登山家~

加藤文太郎加藤文太郎
 「今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一杯食い、嫌になるほど正月気分を味わっていることだろう。・・・それだのに、それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唄う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう・・・。」

 昭和四年(1929)一月、厳冬の八ヶ岳の山頂で自問自答を繰り返す一人の男がいました。名は加藤文太郎、後に「註01不撓不屈の岳人」「生まれながらの単独登山者」と呼ばれ称された人でした。

 明治三十八年(1905)三月十一日、文太郎は兵庫県美方郡浜坂町浜坂の加藤岩太郎、よね夫妻の四男として生まれました。

 父は漁業を営み、幼い頃から海岸近くで育った文太郎は、魚とりや水泳が好きで、特に海老を捕るのが大変上手でした。性格はおとなしく、友だちとけんかをすることもなくいつもニコニコしていましたが、他人のご機嫌とりをするような子でもありませんでした。

 文太郎は、浜坂の高等小学校を卒業すると同時に神戸へ出て、三菱内燃機製作所(三菱神戸造船所)に製図修業生として入社しました。十四歳の時でした。そのとき彼は、他人が電車や乗合自動車で通う道を、毎朝徒歩で通勤していました。そして、時にはほとんど駆け足で通勤することもありました。他人から見れば、大変に思えるこの通勤も、文太郎は楽しんでいるようでもありました。

 もともと、口数が少なく真面目であった文太郎は、遊び註02ほうけることもなく、着実に勉強と仕事を両立させていました。そして昭和二年(1929)には三菱内燃機神戸製作所の技手となり、昭和九年(1934)には技師として昇格するほどでした。義務教育だけで就職した文太郎が、ここまでになるには、並たいていの努力ではなかったのでしょう。

切り絵「八ヶ岳」(渡辺紀子作)切り絵「八ヶ岳」
(渡辺紀子作)
 そんな彼が、仕事と勉強のかたわら、ただ一つ覚えた「遊び」が山登りでした。当時の神戸は、神戸に住む外国人の影響を受け、六甲山へのハイキング、日曜登山、毎朝登山といったレクリエーションとしての山歩きが流行していました。そんな中で、文太郎も余暇の楽しみとして遠山豊三郎氏がつくった「遠足会」に参加し、神戸の山々を歩くことを始めました。文太郎はしだいに山の魅力にひきつけられ、
 「山登りせんと気分が落ちつかない。」
と友人に山登りの楽しさをしみじみと語ったり、
 「もう神戸の裏山登りぐらいでは満足できないので、全国の高い有名な山々を単独で征服してみたい、それが現在の僕の夢である。」
切り絵「冬山登山」(渡辺紀子作)切り絵「冬山登山」
(渡辺紀子作)
と言っては、思いを山に馳せ、胸を張り、目を輝かせるようになっていました。日本海で鍛えられた体力にものをいわせて彼は熱心に山に登り続け、足を鍛えるためと言っては、兵庫県内の国道や県道を片っ端から歩くという独特なトレーニングにも励んでいたのです。と同時に、神戸徒歩会の人々とも交流を持って、山の知識も深めていき、しだいに本格的な山登りへと移っていったのでした。しかも、夏山から冬山の登山へと、自分の限界に挑戦していくようになっていました。

 昭和三年(1928)十二月三十一日、文太郎が乗った汽車は茅野(長野県)の駅へと滑り込んでいきました。夜明けの冷たい空気が肌を刺し、初めての冬山入りの淋しさを文太郎は感じずにはいられませんでした。彼は、スキーを手に、註03乗合自動車で目的地「夏沢温泉」へと向かっていました。乗合自動車を降り、この道最後の村である上槻ノ木で温泉の様子を聞くと、村人は『今年は経営者が変わったため番人がいないこと』や『温泉までの道も、左へ左へと登っていくこと』を教えてくれました。初めて登る道でしたが、木を引き出す馬の歩いた跡を追ったのと、積雪量が以外と少なく夏道がよく分かったことで、さほど苦労なく足を進めることができました。それでも、標高1400m辺りでスキーを履くと、スキーは五寸(15cm)くらい沈み、睡眠不足がこたえてきました。道は段々狭くなり、両側の山が迫って来るようになったとき、山はゴーと凄い音を立て、先ほどまでの青空は既に刷毛ではいたような雲に覆われていました。文太郎には明日の荒天がはっきりと分かり、温度も急に下がったことから身震いをするような不安に襲われ始めてきました。それでも文太郎は、夏沢温泉に無事つくことができ、ほっとした註04安堵感を感じずにはいられませんでした。

切り絵「登山靴とピッケル」(渡辺紀子作)切り絵「登山靴とピッケル」
(渡辺紀子作)
 昭和四年(1929)の元旦は吹雪で明けました。これまで夏山を歩いていた文太郎にとって、山の中の一軒家にいて雪に降られるのはこの上なく淋しいものでした。道はよく分かるし、途中危険と思われる所もないので夏沢峠まで行ってはみたものの、峠の頂上の四尺(1m20cm)くらいの雪とあまりの寒さに驚き、すぐに小屋まで引き返してふとんに潜り込まずにはいられませんでした。

 今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一杯食い、嫌になるほど正月気分を味わっていることだろう。僕もそんな気分を味わいたい、故郷にも帰ってみたい、何一つ語らなくとも楽しい気分に浸れる山の先輩たちと一緒に歩いてもみたい。去年の関の合宿は良かったことだって忘れられない。それだのに、それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかり食って、歌を唄う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう。文太郎は自問自答を繰り返すのみでした。

切り絵「ランプとテント」(渡辺紀子作)切り絵「ランプとテント」
(渡辺紀子作)
 翌日になっても吹雪はおさまりませんでした。丘は霧や風との戦いの真っ最中で、もの凄い音を立てていました。文太郎は一度は小屋をはい出してはみたものの、巨大な自然の力の前には成すすべもなく、とぼとぼと引き返して来ることしかできませんでした。しかたなく、小屋で火を焚こうと薪を小さく割って積み重ね、紙を燃やして一生懸命吹いてはみたものの、薪はちょっと燃えるだけですぐ消えて黒くなってしまう。ローソクも相当燃やしてみたけれど、火力が弱いのか、やはりだめでした。文太郎は、これまでの夏山登山では雨が降ろうが風が吹こうが、一日だって同じ所にとどまったことがなかったので、吹雪によって何日も足止めを食うことが心細くてしかたありませんでした。しかし、冬山の登山は夏山の登山のように行かないのだと自分に言い聞かせることで、内心落ちつきを取り戻し始めてもいました。

 一月三日になり、天候も回復の兆しを見せ始めました。夜中に何度も外を眺める文太郎の目には、夜空にまばたく星が映っていました。
 「今日こそは、八ヶ岳の頂に立つ日が来たのではなかろうか。」
そう思うと、文太郎は何度も何度も目が覚めて、註05まんじりともしないまま一夜を過ごしてしまったのです。そうなると、文太郎は待ちきれずランタンの明かりを頼りに夏沢峠へと出発していきました。峠はまだ暗く風も強かったので、文太郎は註06シールをつけたまま本沢温泉へと下ってみました。途中の道はさほど危険とは思えないものの雪玉が転げ落ちるほど急な斜面が多く、スキーの苦手な文太郎にはかなり厳しいものでした。ちょうどそのころ、硫黄岳から天狗岳への稜線は註07モルゲン・ロートに燃え出していて、文太郎の目を魅了せずにはいませんでした。

切り絵「北前穂高」(渡辺紀子作)切り絵「北前穂高」
(渡辺紀子作)
 硫黄岳へ登る途中は、風が強いので途中スキーをアイゼンに履き替えて雪の中を泳ぐように歩くと雪はかたくアイゼンで気持ちよく歩けました。硫黄岳の頂きで初めて見た冬山のすばらしい景色は、文太郎にとって一生忘れることのできない驚異となりました。しかし、山頂の厳しい寒さは耐えられるものではなく、文太郎はすぐ横岳へと歩き始めました。途中風のため、文太郎の体は二、三度宙に投げ出されることもありました。顔と手の寒いことといえばこの上なく、スキー帽の上に目出し頭巾をかぶり、その上を首巻きでグルグル巻いているにも関わらず、風が強く吹いてきたときには痛ささえ感じていました。

 横岳に入るとすぐに、岩にかじり付いて登らなければならない絶壁がありましたが、案外低く安全にのぼれると思ったのもつかの間、新雪の急斜面を横切るときには『ミシッ』という音をたてて大きな割れ目ができ、文太郎は註08命からがらに這い上がっていったのでした。

切り絵「ロッククライミング」(渡辺紀子作)切り絵「ロッククライミング」
(渡辺紀子作)
 風は止んであたたかくなってきました。そして、午前十一時十分、文太郎は憧れの頂きに立ったのです。三年前の九月にやってきたときは、一月という時季などにこの頂きに立てようなどとは夢にも思っていませんでしたが、これで昨日までの苦労は報われたような気がしてなりませんでした。

 帰りは、登りと逆ルートにも廻ってみましたが、悪場のため長くは歩けませんでした。途中スキーを履いて夏沢峠まで、何度も転びながら下山していきました。文太郎の背後ではこれまで夢に見た八ヶ岳連峰がいつまでもいつまでも見送ってくれているように思えてならなかったのでした。

 こうして、たった一人で冬山の厳しさに生涯挑み続けた文太郎でしたが、そこに何の障害もなかったわけではありませんでした。

切り絵「鷲と槍ヶ岳」(渡辺紀子作)切り絵「鷲と槍ヶ岳」
(渡辺紀子作)
 文太郎は兵庫の山々を日本アルプスに見立てて、登山を繰り返していました。昭和七年(1932)三月、まだ雪の残る氷ノ山から扇ノ山の尾根を縦走中、文太郎は吹雪のため危うく凍死しかけたことがありました。但馬の湿気の多い雪と風は、信州の山々では完全な防水布の手袋も防寒具もわけなく湿らせ、肌着まで濡らしてしまったのです。手足の感覚はなくなり、濡れた肌着は体温を奪っていきました。一寸先が見えない吹雪の中で註09ビバーグを試みたものの、襲い来る睡魔に勝てず、しだいに意識は薄れていきました。そのとき、文太郎には、木に積もる雪が紙切れや旗や提灯に見え始めていました。木に近づき杖でそれをさわってみて、初めてそれが旗でも提灯でもないことに気づく。また、歩いても全身自分の体のような感じがしない。そして、もう立っていることができなくなった瞬間、ついに自分にも終わりが来たのだと思い始めていたのでした。そして、死の恐怖に直面し、悲しみの声を上げて泣いたのでした。故郷の父や親しい友人の顔が何度も浮かび、会社のことが思われました。しかし、そのうち眠るがごとく、ぐったりと倒れこんでしまったのです。

切り絵「ロッククライミング」(渡辺紀子作)小説『孤高の人』
(新田次郎著)
 それから、四、五時間して、文太郎は突然我に返ることができました。からりと晴れ上がったすばらしい天気が彼に味方をしてくれたのです。
 文太郎は、こうして冬山での命がけの場面で何度も何度も生還し、「不死身の男」とも称されたものの、昭和十一年(1936)の一月の槍ヶ岳で、運命を閉じてしまったのです。友とパーティを組んでの登山でした。文太郎は、猛吹雪の中、寒気と飢えで倒れた同行者の死を確認し、その死体の上に二本のピッケルを立て、急を告げようとした途中での死でした。

 しかし、たった一人でそれまで誰も成し遂げることのできなかった数々の偉業を成し遂げていった文太郎の名は、日本登山界の先駆者として今に語り継がれているのです。
 加藤文太郎の死後、彼を師と仰ぐ登山者も数多くいました。
 その一人が、文太郎と同郷の尾崎収です。昭和三十年(1955)浜坂町久谷に生まれ、昭和四十九年(1974)豊岡実業高等学校を卒業後、建築士の仕事のかたわら登山家として数々の偉業を残していきました。彼は国内に留まらず海外の山々へと挑んでいきました。
 そんな彼もまた、昭和五十六年(1981)二十五歳の時、アラスカ州マッキンリー山で同行者二名とともに還らぬ人となってしまったのです。

加藤文太郎記念碑(城山遊歩道)加藤文太郎記念碑
(城山遊歩道)
加藤文太郎記念図書館加藤文太郎記念図書館
■加藤文太郎
 【注釈】
註01
不撓不屈・・・何事にもまけないこと。
註02
ほうける・・・夢中になること。
註03
乗合自動車・・・今でいう路線バスのこと。
註04
安堵感・・・安心すること。
註05
まんじりともしない・・・心配のため一睡もしないこと。
註06
シール・・・スキーにつける滑り止め。
註07
モルゲン・ロート・・・朝日。
註08
命からがら・・・やっとの思いで
註09
ビバーグ・・・登山で露営すること。

 【参考文献】
『単独行』加藤文太郎著 二見書房
『ドキュメント 加藤文太郎』松山荘二著(「山と渓谷」1976・10月号)
『加藤文太郎の追憶』加藤文太郎記念碑建設委員会編

 【年譜】
年号
(西暦)
ことがら
明治38年
(1905)
浜坂町浜坂の加藤岩太郎の4男として生まれる。
大正8年
(1919)
浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸の三菱内燃機製作所(現、三菱神戸造船所)に製図修業生として入社する。
神戸市立兵庫補習学校工業部英語A科・B科・C科を修了する。
大正10年
(1921)
三菱内燃機製作所設計課のデディル会員として山歩きを始める。
大正12年
(1923)
兵庫県立工業学校別科機械科を卒業する。この間皆勤賞を受ける。
神戸徒歩会の人々と山を歩く。
大正13年
(1924)
兵庫県内の国道、県道を歩き始める。但馬の山々を兵庫アルプスと呼び、歩き始める。
大正14年
(1925)
補充兵役陸軍輜兵重特務兵となる。
大正15年
(1926)
神戸工業高等専修学校電気科を卒業する。
昭和2年
(1927)
藤木氏創設の「RCC」に入って登山活動を始める。
三菱内燃機株式会社神戸製作所技手となる。
スキーも始める。(本格的な山スキーは昭和4年から)
昭和9年
(1934)
三菱内燃機株式会社神戸製作所技師となる。
昭和10年
(1935)
1月下雅意花子と結婚する。
3月に婿入り里帰りをし披露宴を行ったが、披露宴に神戸より帰郷する途中、扇山に登り披露宴に遅れる。
昭和11年
(1936)
1月4日から6日頃の間に、長野県北安曇郡平村字高瀬の天上沢岩小屋の25m下方の沢で遭難する。
1月31日加藤登志子・加藤花子・川西潤左衛門より三菱重工業株式会社に、技師加藤文太郎の死亡届が出された。
出典・・・浜坂先人物語
編集・・・浜坂先人物語編集委員会
発行・・・浜坂町教育委員会